11. 自伝小説

My Story

第11章 夏祭り

あの日、ホテルの部屋でNに優しく拒まれたあと、わたしは自分の弱さを深く恥じた。

(拒まれたのは、はじめて…これまでの男たちは、ただの都合のいい同士でしかなかったのに.…)

あえて一線を越えずに踏みとどまってくれた彼の気高さが、わたしの胸にはあまりにも眩しくて、切なかった。

これ以上この人を汚してはいけない。

そう思えば思うほど、わたしの心が彼へと激しく傾くのがわかった。

その後、夫による狂気的なハッキングによって、わたしの周りから友人がひとりふたりと消えていき、社会的に完全に孤立してしまったとき、やはりNだけはわたしを見捨てなかった。 

「僕が守るから」

そのまっすぐな救いの手を、わたしの心はもう拒むことができずにいた。交わす視線のひとつひとつが狂おしく愛おしい。

メールは完全にハッキングされていたので、秘匿性の高い電子掲示板を使って、誰にも言えない秘密の絆を育むようになっていた。暗号のように連絡を取り合うなかで、わたしの魂はすでに、Nという人に捧げられた。

どれほど隠そうとも、狭い日本人社会において、その噂が広まるのはあっという間だった。当然、それは夫の耳にも入った。

夫はこれまで以上に激昂した。

「二度とNと関わるな」
「今すぐ仕事を辞めろ」
「アーイは解雇する」

狂ったように怒鳴り散らした。しかし、その頃のわたしは、どれだけ怒鳴られようが、脅されようが、殴られようが、心に微塵の波紋も立たないほど冷え切っていた。

恐怖によって支配されていたわたしは、もういない。夫の言葉を完全に無視し、何事もないかのようにNとの仕事を続けた。

だが、心の中では決めていた。この「夏祭り」のイベントを最後の仕事にすることを。

このスクールがクローズしてしまえば、Nとの接点は物理的になくなる。そうすれば、これ以上の過ちを犯さずに済むはず。

彼へと向かう激しい衝動をこれ以上抑え込む自信は、もうなかった。何より、わたしという厄介な絶望を抱えた人間と関わっているせいで、夫からの容赦のない嫌がらせがNにまで及ぶのは目に見えている。 

(わたしから綺麗に身を引かなければ、彼のこれからの輝かしい人生が、わたしの泥沼で汚してしまう)

これで、本当に最後にしよう。

心に誓った。

当日、飲食店や物販ブースが所狭しと軒を連ねる会場は、上海の日本人社会が毎年総出で盛り上がる恒例の夏祭りだった。わたしはこの一大イベントの運営に深く携わっており、この年はNのスクールとしても大きなブースを出展していた。

朝、子供たちを信頼できる友人の家に預け、わたしは日本から持ってきた慣れない浴衣に身を包んで会場へ駆けつけた。午前中の時点で、会場はすでに熱気と大盛況に包まれていた。

子供向けの楽しげな屋台が多く並んでいるのを見て、胸の奥がきゅっと痛んだ。

(連れてきてあげればよかったな。来年は、一緒に……)

 心の中で呟いた直後、はっと気がついた。来年の夏、わたしはもう、この街にすらいないかもしれない。

慣れない浴衣姿のまま、息つく暇もなく忙しく動き回っていたせいで、時間の感覚は完全に麻痺していた。ふと、かばんの中で激しくなり続けるスマホを取り出す。画面には、夫からの未読メッセージが、呪詛のように連打されていた。 

震える指で、メッセージを開く。

『今すぐ帰れ』
『帰らないと、全員殺す』

言葉の意味を理解した瞬間、わたしは雑踏の真ん中で金縛りにあったように動けなくなった。今までの、わたし個人に向けられた脅しとは明らかに違う、本物の「殺気」が画面から立ち上っていた。

祭りの楽しげなBGMや人々の笑い声が、耳の奥から遠ざかっていく。わたしは我に返って周りを見渡した。笑顔で団扇を仰ぐ人々、子供たちの無邪気な歓声。

 (この人たちが、危ない。あの人は、やりかねない――)

全身の血液が、一瞬で凍りついた。

呆然と立ち尽くすわたしに、Nが不意に声をかけた。

 「どうしたの?」
「……すみません、急用ができて、今すぐ家に帰ります」
「何があったの、顔色が悪いよ?」

曖昧にごまかして立ち去ろうとするわたしを、Nは決して離そうとしない。観念して夫から届いたばかりの狂気的な脅迫画面を彼に見せた。 

「わたしがここにいたら、迷惑がかかるから、帰ります」 

「また殴られるんじゃないの?」

「それでいいんです..」

このままあの家に戻れば、今度こそ本当に殺されるかもしれない。だけど、これ以上この人を巻き込みたくない。激しい葛藤のなかで身動きが取れなくなっているわたしの元へ、血相を変えた友人が息を切らせて駆け寄ってきた。

 「あゆみ! 旦那さんが凄い形相で、怒りながら中を探し回ってるよ! 大丈夫なの!?」

友人が指差す遥か遠くの雑踏の中に、鬼のような形相でこちらを睨みつける夫の姿が見えた。

その瞬間だった。

「走って!」
Nがわたしの腕を強く引っ張った。

「 逃げた方がいい」
「でも..」
「僕が守るから」

わたしたちは祭りの華やかな表舞台に背を向け、関係者用の薄暗い裏口へと向かって猛然と走り出した。下駄の音が不規則に響く。

Nはすぐさま大通りでタクシーを止め、わたしを後部座席に押し込むと、自らも滑り込むようにしてドアを閉めた。

車の中からわたしを探す夫の顔がはっきりと見えた。恐怖に震えるわたしは「伏せて! 顔を隠して!」というNの声で我に返った。浴衣の袖で顔を覆って座席の下に息を潜めた。窓の外は、さっきまでの祭りの喧騒が、嘘のように急速に遠ざかっていく。

「目的地は追って伝えます。とにかく、まっすぐ走らせてください」
Nは運転手に告げ、追っ手を撒くようにタクシーを走らせた。

向かった先は、外灘(バンド)―上海を象徴する、最もきらびやかな歴史的建築が並ぶ観光地だった。

「人が多く集まる場所の方が、安全でしょ」
そう言って前を見据えるNに、わたしはただ小さく頷くことしかできなかった。

着慣れない浴衣に下駄、日常から放り出され、これから自分の人生がどうなってしまうのか、底知れない不安だけが泥のように胸に沈む。そんなわたしに、Nは明るく微笑んだ。

「こんな絶望的な時こそ、楽しまなきゃ損だよ」

彼に連れられて上がったのは、外灘で最も美しい夜景を一望できる、格式高いルーフトップバーだった。 眼下に広がっていたのは、これまでの地獄のような日常からはあまりにもかけ離れた、豪華絢爛な光の海。

さっきまで命の危険に怯えていたはずのわたしが、場違いな浴衣姿のまま、最高級のシャンパンを喉に流し込んでいる。すべてが夢のようで、現実としての輪郭がない。

胸が激しく躍動すると同時に、それと同じだけの巨大な罪悪感が、黒い波となって押し寄せてくる。 

(わたしのせいで、また誰かの平穏が、誰かの幸せが壊れていく……)

それでも、差し出されたこの温かい手を、もう振り解きたくない。あの夜、ホテルの部屋で静かに振り解かれたこの手を、ずっと掴んでいたい。

上海の夜景を見下ろしながら、わたしたちは静かにシャンパンのグラスを合わせた。 互いの孤独と覚悟を確かめ合うように重ねた肌は、夜の空気に溶け込んで境界線をなくしていった。

上海の長い、本当に長い夜が、ゆっくりと明けていく。 ガラス越しに差し込む眩しい朝日は、もう引き返せないところまできたわたしの現在地を静かに顕にしていた。

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