09.自伝小説

My Story

第9章 出逢い 

いったい、どんな仕事を手伝ってほしいのだろう。

スマホの画面に映る友人のメッセージを読み返していると、さっきまで高鳴っていた胸はしだいに落ち着き、今度は冷たい不安がわたしを覆っていった。

(また、バレたらどうしよう……)

夫の影が脳裏をよぎる。わたしは覚悟を決めて、友人に夫のことをそれとなく伝えてみることにした。

「実は夫が色々とうるさい人なんだけど、大丈夫かな?」
「あゆみじゃないとできない仕事なの!お願い!」

友人の強い言葉に背中を押され、わたしは翌週、オフィスを訪ねる約束をした。

「今日はヨガに行ってくるね」

子供たちを送り出したあと、夫の朝食をテーブルに準備して、それだけを短く告げた。本当はちゃんとした服装で行くべきなのだろう。

けれど、どこで誰に見られているかもわからない日本人街の真ん中だ。また誰かから夫に告げ口でもされたら、それこそ面倒なことになる。わたしはあえて、普段通りのラフなヨガウェアに着替えて家を出た。

14階にあるオフィスは、これまでに何度も前を通ったことのあるビルの中にあった。エントランスの警備員に部屋番号を告げ、エレベーターに乗り込む。

日本製のエレベーターは、静かでどこまでも滑らかに上昇していく。そんな他愛のないことを考えている間に、デジタル表示は14階に達した。

ドアが開くと、目の前にその会社の看板が掲げられていた。 緊張を飲み込み、呼び出しベルを押そうとした瞬間、不意に内側からドアが開いた。

その瞬間、私の息が止まった。

スーツを端正に着こなした男が、そこに立っていた。 よく知っている顔―いや、絶対に知らないはずなのに、なぜか狂おしいほど懐かしい顔。それは、私が昔好きだった人に、あまりにもよく似ていた。

「こんにちは、Nです」
「あ、こんにちは。はじめまして……」

あまりにも場違いな、適当な格好で来てしまった自分が急激に恥ずかしくなった。

(この人が……)

まじまじと彼の顔を見つめながら、同時に、いつかこの人を騙すことになるかもしれない未来を想像して、胸の奥がすっと冷たくなった。 

これから、ただごとでは済まない何かが起きる。ジェットコースターが頂上から一気に急降下する直前のような、あの強烈な予感が、わたしの内臓を駆け抜けていった。

手伝ってほしいと依頼された仕事は、一見するとスクールの運営だった。だけど、それは綺麗な表向きの理由に過ぎない

本当の目的は、このNという出資者を会社から追い出すこと。わたしは、友人たちによって、彼らの「スパイ」としてこの場所へ送り込まれようとしていたのだ。

オフィスの奥を覗くと、いつもの顔馴染みの友人たちがデスクに座っていた。まるでいつもの飲み会のような緩やかな空気に、張り詰めていた緊張感は一気に消えていく。

(ここが、いつもみんなが話していた場所 )

何度も耳にしていた「追い出すべき憎きターゲット」。その張本人を目の前にして、わたしの胸はずっと張り裂けそうだった。 

そんなざわつくわたしの心とは対照的に、有名デザイナーが手がけたというオフィスは、隅々まで清潔で、洗練されていて心地よい空気に包まれていた。

「あゆみは旦那さんが厳しいから、あまり無理はできないの」

 友人がNに私を紹介してくれた。

「もちろん。できる範囲で手伝っていただければ大丈夫ですよ」

提示された条件は、想像を遥かに超えるものだった。洗練された美しい空間、縛られない自由な働き方。たとえ入り口がスパイとしての潜入だったとしても、断る理由など見当たらない。

その日からわたしは、幼稚園の仕事と掛け持ちしながら、夫に完全に内緒で働き始めた。 わたしの人生に、嘘がまたひとつ増えた。今度の嘘は、これまでの暗い嘘とは少し違う、新しい色をしていた。

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