第10章 寝返り
Nとの接点は、仕事の密度が上がるにつれて、引き寄せられるように自然と増えていった。 近づきすぎてはいけない。頭ではそう分かっていた。今回ばかりは、絶対に失敗できないのだから。自分にそう何度も言い聞かせながらも、気づけば一日の大半、Nのことを考えている自分がいた。
わたしは彼を、一人の人間として深く尊敬していた。 知らない世界で見せる堂々とした立ち振る舞い、彼の周りに集まる魅力的な人たちとの鮮やかな関わり方。
そして、何が起きても動じない胎の座ったあの姿。そばにいるだけで、凍りついていた心が優しく解けていくような安心感があった。 それが心地よくて、同時に、恐ろしかった。
近づきたい、でも近づいてはいけない。ふたつの衝動が、いつも激しく衝突していた。内側に明確な変化が生まれ始めたのは、そんな頃だった。
Nのスクールで働き始めてから、わたしの世界の流れが目に見えて変わりだした。ここでは、評価されて、必要とされた。自分の力でお金も稼げるようになっていった。
「夫の許可」がなければ息をすることさえ許されないと思い込んでいた自分が、ここでは全く違う羽で飛べた。
アーイは変わらず協力的だった。家庭も子供たちとの関係も、わたしが外に出ることでむしろ上手く回り始めていた。何より、Nが私を一人前の存在として信頼してくれていることが、失いかけていた自尊心を蘇らせてくれた。
来客の多いNから「旦那さんが大丈夫なら、今夜の会食、一緒にどう?」
と誘われる機会が増えていった。 「大丈夫です。行きます!」 本当は少しも大丈夫ではなくても、わたしはいつでも即答した。
夫の許可を伺う惨めな自分から、一日も早く卒業したくて、その証明のように言葉を返した。Nを訪れる一流の人たちとの時間は、眩しいほど刺激的だった。わたしはいつしか、その時間を生きる支えのように心から楽しみにするようになっていった。
しかし、Nのまっすぐな人柄に深く触れるごとに、彼を罠に嵌めようとしている友人たちへの疑念と、罪悪感がわたしの胸を黒く染めていった。
これ以上、彼に嘘を突き通すことはできない。
限界を迎えたわたしはある日、思い切ってNにすべての真実を打ち明けた。 友人たちが裏で彼を失脚させようと動いていること。そして、わたしがそのための「スパイ」としてこのスクールに送り込まれたこと。
わたしの告白を、彼は驚くこともなく、どこか静かに納得した様子で受け止めた。 この日、わたしは友人たちを裏切りNの側に寝返った。
報復は、あまりにも早かった。 わたしの知らないところで、誰かが夫にすべてを密告していた。スマホの画面の向こうには、わたしの悪口を執拗に書き連ねるグループチャットが立ち上がっていた。
その悪意は恐ろしい速さで他のコミュニティへも拡散され、昨日まで親しく笑い合っていた友人たちが、蜘蛛の子を散らすように次々とわたしの前から姿を消した。
スクールに関わっていた友人たちも、まるで申し合わせたかのように突然辞めていった。 何が起きているのか分からないまま、築き上げてきたスクールをクローズせざるを得なくなっていく焦燥感。
そして、自分の周りにべっとりと立ち込める、あの異様な悪意の空気が怖くてたまらず、わたしは震える手でNに「会いたい」と連絡を入れた。だが、その頃にはすでに、わたしのメールは夫によって完全にハッキングされていた。
その夜、家に帰った途端、激しい暴力をうけた。
「お前は泳がされているんだ」
狂気混じりのその言葉を最後に、わたしの記憶は途絶えた。気がついたときには、冷たい床の上で朝を迎えていた。
翌日は、スクールの大切なイベント当日だった。 鏡を見るまでもない。ひどく腫れ上がった顔を見下ろしながら、夫は薄ら笑いを浮かべて言い放った。
「そんな顔でよく外に出られるね。恥ずかしくないの?」
(そんな顔にしたのは誰なの)
喉元まで出かかった怒りの言葉を全て胃の底へ飲み込み、わたしは黙って、左目に眼帯を当てた。
「ママ、どうしたの?」
怯えた目で心配する娘に、「ごめんね、大丈夫だから」と、何の気休めにもならない言葉を返し、アーイに子供たちを託して家を飛び出した。
会場の前には、すでに多くの参加者が集まっていた。アザだらけの顔を誰にも見られないよう、ただ地面を見つめて対応していると、わたしの異変を察したNが、静かに奥の部屋へとわたしを呼び出した。
「眼帯は外したほうがいい。逆に目立つから」
彼の声は、いつもと変わらず落ち着いていた。彼は自分がかけていた眼鏡を外し、わたしの顔にそっとかけた。レンズをとおした世界が、ぼんやりと見えた。
すべてのイベントが終わり、静まり返った会場でNと二人きりになった。
「何か、僕にできることはある?」
その言葉が鼓膜に届いた瞬間、せきを切ったように涙が溢れ出した。もう、止めることができなかった。 自分のあまりの愚かさが、行き場のない孤独が、張り詰めていた恐怖が、すべて一度に崩壊して流れ出していく。
こんな地獄のような状況を招いたのは、他でもないわたし自身の弱さのせいだ。 それでも――誰かに「何かできることはある?」と手を差し伸べられたのは、一体いつ以来だろう。
警察も、日本の行政も、信じていた友人たちも、誰も助けてくれなかった。 彼がくれたその一言が、八方塞がりで真っ暗だったわたしの胸の奥に差し込んできた。
眼鏡のレンズの向こうの世界が、涙で激しく歪みながら、別世界へと塗り替えられていくのがわかった。
ただ泣き続けるわたしを、彼は努めて明るく食事へと連れ出してくれた。メールが夫に盗み見られていること、友人がいなくなったこと、そして、もうあの家に帰るのが恐ろしくてたまらないこと――
わたしは心の中にある泥をすべて吐き出すように話した。
彼はただ、黙ってそれを受け止めてくれた。食事が終わると、彼はわたしが家に戻らなくてもいいようにと、近くのホテルを手配してくれた。
ホテルの部屋に入った瞬間、張り詰めていた糸が切れ、わたしはしがみつくようにNに抱きついた。温もりが欲しかった。この恐怖から救ってほしかった。
彼は、わたしの背中に腕を回してしばらくそのままで、わたしの震えを受け止めてくれた。そして、静かに、手を解いた。
「待っているんだ、彼女が」
告げられたその言葉に、わたしは我に返った。 なんて情けないのだろう。こんなにも誠実で、わたしを泥沼から救おうとしてくれている人に対して、どれだけ身勝手な迷惑をかけているのか。
用意してもらったホテルは、すぐにキャンセルしてもらった。これ以上、この人の優しさに甘えて、彼の人生を汚してはいけない。自分の引き起こした弱さと、貞操観念のなさが、今更の激しい羞恥となってわたしを襲った。
深夜、わたしは結局、あの冷え切った家へと戻った。 静まり返ったリビングの床にヨガマットを敷き、一人で横になる。
(アザだらけになった顔を、これ以上殴られることはないだろう)
奇妙な安心感と、Nへの切ない想いが、暗闇の中で波のように交互に打ち寄せていた。

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