06. 自伝小説        

My Story

 

第6章  深海の静けさ 

「ごめんね、タクシーがぜんぜんいなくて」

小さな声で夫に話しかけると大きな怒鳴り声が廊下に響いた。

「ふざけるな!もう二度と帰ってくるな」

こうしてわたしは寒い日の夜に家から閉め出された。

しばらくたったある日、閉め出されていたほうがましだったとわたしは知る。

その日は家に帰った途端に蹴り飛ばされた。意識を失ったわたしは頭から水をかけられ目を覚ました。生まれてはじめて「殺されるかもしれない」と思ったのと同時に、安堵する気持ちに包まれた。

ーこれで夫は救われるー

夫はわたしを殺すことで後悔という音のない深海に沈み込む。そこですべてを無に戻せる。

寒空の下閉め出されても、熱湯を頭からかけられても、わたしは懲りることなくコソコソと出かけ続けた。

夫のいいなりになるぐらいなら死んでやるという、あのころのわたしの「小さなプライド」を守るためだったのか。

それが、何よりもかけがえのない大切なものを傷つける結果になるなんて、あのころの愚かなわたしは知らない。

この日もまた殴られていた。

「男がいるだろう!」

怒鳴りながら襲いかかってくる夫を睨み、わたしは覚えたての聖書の言葉で祈りを捧げる。

「どうか、許してあげてください。この人は、何をしているのかわからないのです」

時間がまだ早かったこともあり、子供達に見られないようにわたしは息を潜めて嵐がすぎるのを待った。耳の中は深海のように静まり返り、罵声だけが鼓膜に響いていた。

ふと顔をあげると子供部屋のドアが開いている。寝ていたはずの娘がこちらに向かって歩いてきていた。

(こないで)

声にならない声が胸に広がった。形を持たない底なし沼にどこまでも引きずり落とされそうで、床に這いつくばり嗚咽するわたしの前に、娘はまっすぐ立ちはだかった。

「パパやめて!」

泣きながら訴える彼女の声は強く部屋に響いた。後ろには小さく身を屈めて不安そうにこちらを見る枕を抱えた息子がいた。

身体も心も何も動かないわたしを夫は足で踏みつけた。

「この女に触るな、汚いから!」
「あっちの部屋で3人で寝よう」

両手に子供達を抱えて奥の部屋へ消えてゆく夫の背中をわたしは横たわりながら虚ろに追いかけた。

翌朝、カメラのシャッター音で目が覚めた。起き上がるとそこに娘が立っていた。泣いてもいない。怒ってもいない。ただ静かに、わたしを見ていた。

「どうしたの?」

娘は答えないで携帯を差し出してきた。画面には、わたしの母へのラインが開かれている。そこにはあざだらけの写真が添付されていた。

「ばあばに話して」

娘はそう言って下を向いた。

「ママ、逃げて」


部屋を出ていく娘のなだらかな肩はいつもよりも沈んで見えた。その肩に、その背中に、わたしは何度も「ごめんね」とつぶやいた。そして子供達の匂いの残る布団に顔を埋めて声を殺してしばらく泣いた。

殴られてもよかった。殺されてもよかった。けれど、子供達の記憶だけは、汚したくなかった。

わたしが守りたかったのは、自分の小さなプライドでも、自分の尊厳でもない。子供たちの中に残り続けるもの。

それなのに、わたしが守るべき子が、たった6歳の子が、わたしを守ろうとしている。こんなことをさせてはいけない。こんな世界があってはいけない。

長いあいだ見ないようにしていた何かが、静かに崩れはじめた。

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