13.自伝小説

My Story

第13章 大阪

大阪に戻ってから、わたしはすぐに弁護士を探しはじめた。 求める条件は、いたってシンプルなつもりだった。

子供たちを引き取り、正当な慰謝料を受け取り、離婚する。ただ、それだけ。

世間を見渡せば、多くの人が家庭裁判所などを経て、あたりまえのように、わりと簡単に離婚を成立させている。友人や知人のケースを聞いても、それは決して不可能なことには思えない。

なのに、なぜ、わたしにはそれができなさそうなのだろう。 どの弁護士に相談しても、返ってくるのは冷たい拒絶の言葉ばかり。

「相手が日本に住んでいないと、法的な効力がなくてね……」
「DVの立証と言っても、日本国内で起きたことではないので、裁判を起こすのは難しいですよ」

財産を日本に持たないわたしの案件を、資産分与が得意な大手の弁護士たちは、途端に面倒そうな顔をして誰も手をつけたがらなくなった。

他人が簡単に通り抜けていく門は、わたしの前でだけ重く閉ざされた。残酷なまでに叶いそうにない現実を突きつけられるたび、足元が崩れ落ちるような絶望に襲われる。

何人の弁護士と話しただろう。力になってくれそうな気配はどこにもなく、そのシンプルな要求が、かえってわたしをよけいに混乱させた。

何が正しくて、どう動けばいいのか、自分自身の望みさえも見失いそうになるほどに、心は深く惑わされていった。

絶望のなかで、以前上海から電話で助けを求めた「女性支援センター」へと足を運んだ。

「今は大阪に逃げてきているんです」

そう伝えると、相談員の方はこころよく話を聞いてくれた。そして、これからの戦いのために、夫からされたことを時系列で細かく記録すること、接近禁止令を出すこと、警察や病院へ行くことを丁寧に教えてくれた。

しかし、過去の傷口をわざわざ広げて記録する作業は、想像以上に苦痛だった。 ペンを握るたびに夫の怒号や恐怖がフラッシュバックし、上海にいたあの時よりも精神的に深く沈み込んでいくのが分かった。

行きたくはなかったけれど、すがるような思いで心療内科のドアを叩いた。告げられたのは「PTSD」の診断だった。 

目の前に差し出された大量の薬を前に、心が粉々に崩れ落ちていく。

(どうして、こんなことになってしまったんだろう……)

何度も、何度も自分を責めた。暗い反芻のなかで、底なしの無価値感と敗北感、そして砂漠のように不毛な罪悪感に、心は枯渇しつくしていた。

子供たち、そしてNの存在がなければ、あの時、わたしの人生は完全に終わっていたと思う。

夫からの狂気的な脅迫メールは、日本にいる間もずっと届き続けた。 女性支援センターからの強い勧めもあり、わたしは躊躇いながらも警察署へ足を運んだ。

担当してくれたのは、物腰の鋭い女性の警察官だった。届き続ける文面、暴力の被害写真、心療内科の診断書を見せて今までの経緯をすべて机に並べて説明した。

わたしが「接近禁止令」について尋ねようとすると、言い終わる前に、彼女は強い口調で遮った。

「今すぐ、被害届を出しなさい」

夫は今、上海にいると伝えても、彼女の眼差しは揺るがなかった。

「日本に戻ったタイミングで、空港で逮捕できます。禁止令だけではあなたの安全は確保できない。これは、立派な逮捕案件です」

その言葉を聞いた瞬間、恐怖に襲われた。

(わたしのひと言で、あの人が逮捕される)

もちろん、されたことは許しがたい。けれど、罰を与えたいわけではない。ただ、静かに離れて、人生をやり直したい。お互いに。これ以上、子供たちの心に消えない傷を残したくない。

「被害届を出すかどうかは、少し考えさせてください……」

そう言って、逃げるように警察署をあとにした。相手に同じ「攻撃」という武器で復讐することに、わたしの心はどうしても拒絶反応を起こしてしまう。

あの頃のわたしは、あまりの混乱から「すべては自分のせいではないか」と、自分を責めることしかできなくなっていた。

法律にも見放され、わたしのシンプルな願いが間違っているかのように思えて、自責の念という底なし沼に沈んでいたのだ。

だからこそ、警察や支援センターの人たちが「あなたは間違っていない」「大変でしたね」と、自分を責めることしかできないわたしを丸ごと擁護してくれたことが嬉しく安心感に包まれた。

その後も、警察から定期的に「安否確認」の電話をもらった。 誰かが自分の存在を気にかけてくれている。それだけで、朦朧としていたわたしの心は鎮まり、失いかけていた尊厳を少しずつ取り戻させてくれた。

そうして自分を取り戻し、外の世界を客観的に見つめる心の余裕ができたとき、ふと、ある現実に気がついた。

心療内科に通い続けていても、この心の傷が根本からよくなることはないのではないか、と。それは、クリニックの待合室にいる人たちの虚ろな目を見ているだけで、痛いほど伝わってきた。

このまま薬に頼って人生を終わらせたくない。

前を向き、希望を持つことができたのは、もう少しで子供たちが大阪へ来ることが決まったからだった。

学校が夏休みに入るタイミングに合わせ、日本へ一時帰国する上海の友人に、子供たちを一緒に連れてきてもらうようお願いをしていたのだ。

当日、関西空港の到着ロビー。 当時6歳と5歳だったふたりの小さな子供が、親のいない飛行機に揺られてやってくる心細さは、想像を絶するものだったと思う。

ゲートの向こうから現れたふたりは、最後に会ったときよりも少しだけ大きく成長しているように見えた。

けれど、極限の緊張のせいか、いつもより不自然なほど静かだった。

「飛行機の中、ふたりともすごくお利口さんだったよ!」

そう言って笑顔を見せてくれる友人に心からお礼を言い、わたしはふたりを強く、強く抱きしめた。溢れ出しそうな涙を子供たちに気づかれたくなくて、わざと大きな声をだした。 

「よしっ! ばあばの家にいこう!」 努めて元気よく、ふたりの手を引いて空港バスに乗った。

大阪の実家で、慌ただしくも愛おしい4人暮らしが始まった。母は孫たちの到来をとても喜んでくれた。単身赴任で留守がちだった父の代わりに、子供たちの眩しい笑い声が、静かだった家の中に満ちていく。

ふたりは、わたしの心配をよそに、思っていたよりもずっと元気であっけらかんとしていた。 上海という大都会で、たくましく育ってきたふたり。

大声でゲラゲラと笑うその天真爛漫さは、わたしの胸にあるドロドロとした悲しみや不安を、全部大きな波で飲み込んで消し去ってくれた。

子供たちの笑い声に誘われるようにして、わたしは気がつけば心から笑えるようになっていた。

日本の学校への編入も、拍子抜けするほどあっさりと決まった。制服も教科書も、学校がすべて無料で貸し出してくれて、翌日からすぐに登校できることになった。

下の子の幼稚園もすぐに見つかり、ふたりはあっという間に新しい友達を作って紹介してくれた。わたしの知らないご近所さんの家に、いつの間にかふたりで遊びに行っていたりと、日本の環境に溶け込むスピードに目を見張った。

どんな環境の変化にも、泥の中から咲くロータスのように、たくましく生きるふたりの姿が心から誇らしかった。

 (このまま、ずっとここにいるのも、悪くないかもしれない)

賑やかな大阪の街で、わたしは子供たちの陽気に守られながら、ひとときの平穏に包まれた。

だが、この平穏を破るように、上海からの影は、再び音もなくわたしたちの元へと忍び寄ってくるのだった。

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