17.自伝小説

My Story

第17章:沈黙 

裁判が終わっても夫はわたしをあざ笑うかのように、何度もメールで煽り立ててきた。 

「なんで日本で裁判しないの?」
「争わないってことは、結局子供を捨てるつもりなんだろ」

胸が掻きむしられた。夫もわたしも中国に拠点を置いている一方で、子供たちは日本の義実家にいる。この「ねじれ」のせいで、当事者が日本にいない以上、日本の裁判所で親権を争うことは法的に困難だった。夫はその「法の壁」を百も承知で、あえて挑発していたのだ。

戦い続けることもできた。だけど、わたしが必死に抗えば抗うほど、戦い続ける限り、日本にいる子供たちはおそらくわたしの悪口を繰り返し聞かされて、その幼い心を削り取られることになるだろう。

母親が罵倒され、否定されるのを間近で聞かされることが、子供にとってどれほどの毒になるか。子供たちを、大人の奪い合う対象にしたくない。

自分の「正しさ」を証明して無理やり奪い返すよりも、ふたりの「心の平穏」を守ることの方が、何百倍も大切だ。

(捨てたんじゃない。奪われたんだ)

そう叫びたい声を飲み込み、わたしはあえて、その汚名を甘んじて受けることにした。わたしが戦いをやめて「子供を捨てた悪者」で死んだと思われたとしても、ふたりの耳に届く言葉が穏やかである方を選びたい。

絞り出した最後で最大の愛の形は「沈黙」だった。こうして子供たちとの連絡は完全に途絶えた。

「いま中途半端に会いに行っても、余計に混乱させて悲しませるだけだ。もう少し待った方がいい」

隣で支えてくれるNの言葉は、あまりにも説得力のある正論だった。それはかつて彼自身が、離婚後に我が子の動揺を見て苦しんだ経験があったからこその、血の通った助言だった。

ふたりが泣くくらいなら、わたしが泣けばいい。いつか、夫からの呪いさえも祝えるほどに、わたしは幸せになってみせる。そう決意することで、自分を保っていた。

それでも募る想いを抑えきれず、何度か日本の小学校の前で待ち伏せをしたことがあった。

歩いてくる男の子のグループの中に息子を見つけ、駆け寄ってプレゼントを渡した。

「お姉ちゃんにも渡してね」

そう伝えると、息子は戸惑ったように走り去った。その姿を見ただけで、胸が張り裂けそうだった。 

次に会いに行ったとき、子供たちはわたしを見て、無表情にこう言った。

「不審者と話すと怒られます」

逃げる子の背中を見送りながら、わたしはその場に泣き崩れた。

少しして、夫から怒鳴るようなメールが届いた。

「通報するぞ。お前は男と逃げて死んだことになっている。二度と近づくな」

会いに行くたびに、子供たちは裏で烈火のごとく怒られていると知ってわたしは会いに行くことを完全に諦めた。

わたしのいない生活に慣れていけるように。わたしの存在が、ふたりの重荷にならないように。 そのためには、消えること。

少しして、「毎月6万元払えば会わせる」というメッセージが届いた。当時のレートで約90万円。子供を人質にしたような要求に心が傷んだがふたりと会えるのならとわたしはその金額を稼ぐことを目標に働いた。

ようやく目処がついた数年後、子供たちに留学の提案をメッセージした。しかし、返ってきたのは「だれ?」という二文字だけだった。

何も変わっていなかった。そして、いつの間にか、離婚だけが事務的に成立していた。

その日から、私はブログを書き始めた。 いつか子供たちが大きくなって、もし仮に、わたしを検索したときにたどり着けるようにとフルネームと写真、そして連絡先を載せた。 タイトルは「幸せの手紙」にした。

しかし何年経っても、返信はなかった。ブログを開くたびに胸が痛み、更新の回数は減っていった。 それでも、ふたりの誕生日だけは、欠かさずメッセージを綴り続けた。 このブログだけが、消えそうなわたしの希望の光だった。画面越しの淡い光を見つめながら、祈るように、ただ歳月を重ねていった。

2025年の夏、奇跡が起きた。

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