さぼてんの花  

遠藤彩乃ちゃん遠藤康貴くん、届きますように My Story

第二章 ─ さぼてんの花

2005年夏。わたしは上海で出会って3ヶ月の男と結婚した。

さしてカッコよくもない、お金持ちでもない、タイプでもない、ふつうの現地採用の日本人の男と、異国の地で突然に。

3ヶ月で戻るといって上海に飛び出したわたしから、結婚の報告を聞かされた大阪の父と母は、当然ながら猛烈に驚いた。

「結婚するなんてひとことも言ってなかったやん」

「考えなおし!」

しかし、頑固なひとり娘の強情さを知っているからか、数日後には「あんたが決めたんやったら」と、諦めるように受け入れてくれた。

わたしが親に反対されたのは、後にも先にもこの時だけ。年長者のアドバイスはなるべく聞いておいたほうがいいというのは、本当かもしれない。


所持金100万円だった男は「これで結婚式をあげよう」と提案してきた。

当時から太っ腹なところのあった男は、結婚式でも2次会でもご祝儀を受け取りたがらず、招待制の式となった。

その大胆さに、ふらふらしていたわたしは頼り甲斐を感じ、なにも考えずに結婚した。

上海に来たばかりで、式に招待できるような友人はいない。それでも人数は揃えた方がいいからと、わたしはバイト先のクラブの女の子たちに声をかけた。

結果的に日本から来てくれた友人もいて、なんとか式をあげることができた。

だが、思い返せば慚愧に堪えない結婚式だった。

新郎新婦の挨拶では、新郎の代わりにわたしがマイクをもぎとり、

「わたしが、彼を幸せにします!」

と言い放ち、会場をどよめかせた。

2次会では夫の友人と口論になり、機嫌を悪くしたわたしは途中で帰り場をしらけさせた。

口論の理由は、夫がいっき飲みを強要されていたからだった。

ふらふらと歩くさぼてんのようなわたしは、行き当たりばったりに蹴散らしていた。

それは、戦わなければ横断歩道も渡れない、ほぼ戦場の上海で生きるための術でもあったのかもしれないけれど、

今思えば、わたしはとにかく未熟で、果てしなく世間知らずで、ただただ生意気な25歳の小娘だったのだ。


そんな小娘のわたしのもとに翌年娘が産まれ、そして翌々年には年子で息子が産まれた。

小娘からいきなり母親に昇格したものの、中身は小娘のまま。子供が子供を産んだようなものではあったが、小娘なりに、妊娠、出産、育児という人生の一大行事を一生懸命やっていた。

胎教のために興味のないクラシックを聴いたし、育児本を愛読した。

大好きだったお酒はもちろんやめ、目の前でおいしそうに生ビールを飲む夫を恨めしく睨みつけながら、お腹をさすってウーロン茶をすすった。

そしてお腹の子に話しかけた。

「大きくなったら一緒にお酒を飲もうね」


当時の上海の病院で、日本人が出産するというのはまれなことで、ほとんどの人は日本に帰国して出産していた。

医療レベルへの不安もあったが、それなりの産院で産むにはコネがないとできないというのも大きな理由だった。

初産の小娘のわたしなら、大阪での里帰り出産が普通ではあったが、日本で産むと上海に戻るまで数ヶ月はかかる。

産まれたばかりの我が子に会えない夫がかわいそうだと思い、わたしは上海で産むことにした。夫に告げるととても喜んだ。

頼りになる夫が手配したのは上海で一番有名な産院の、一番有名なドクターで、わたしはここのVIP病棟で世話になれることになった。

ここで日本人が出産するのはほぼ初めてだったようで、看護師たちもよく気にかけてくれた。定期検診には必ず同席してくれる夫の存在も、心強かった。


妊娠後期の健診のとき、ドクターにこう告げられた。

「赤ちゃんの頭がお母さんの骨盤よりも大きいわね。帝王切開にしましょう」

あっさりと言われたその言葉に、わたしの目の前は真っ暗になった。どの本にも、帝王切開は子供によくない、自然分娩が一番と書いてあったからだ。

しかし、上海では自然分娩より帝王切開が主流だとドクターはまったく気にしていない。

普通に産んであげられないことを、わたしはひとりで責め続けた。

手術日は7月31日に決まった。子供の意志で決められないことへの違和感はあったが、ただ頷くしかなかった。


30日の夜、予想外に陣痛がはじまった。この子の意志を少しでも尊重してあげられたようで、うれしかった。

波のようにやってくる痛みに悶絶しながら、夫に支えられ病院へ向かった。手術は予定通り朝一で行われた。

下半身麻酔の脊髄注射は、陣痛よりも重く、痛く、打ったすぐあとから、腰から下のわたしが「わたし」から消えていった。

手術室の中では、金属音が静かに響いていた。目の前には黄ばんだ白いカーテンがかけられていて腰から下は見えない。

けれど、天井越しにはドクターがわたしの身体にメスを入れる光景が映り、横には血の気の引いた夫の顔が見えた。

金属音がやんだ。

バシャっと水がこぼれるような音がした。

そして、「おぎゃー」と元気な声が聞こえた。

看護師がわたしのもとに連れてきた。

「女の子ですよ」

その子の顔を見た瞬間、涙が頬をつたった。今まで流したことのない部類の涙だった。

「こんなに綺麗なベイビー見たことないわ」というドクターの興奮した声が聞こえる。

彼女は本当に、美しかった。

名前は夫の家がかかえる占い師がつけることになっていた。

わたしの名前を占った占い師が「この女性は強すぎる。子供の名前でなんとかしないと」と言っていたそうで、どんな名前になるのか楽しみにしていた。

知らされた名前は彼女にぴったりの雰囲気だった。その名で呼んでみるときれいな目で見返してきた。

彼女の瞳は、すべてを見透かしているような純度があった。


術後は想像以上に苦しかった。立って歩けるようになるまで1週間、さらに乳腺炎にも苦しみ、何度か救急病院に運ばれた。

3時間ごとの授乳で寝不足が続いたが、母がしばらく滞在してくれたおかげで乗り越えられた。

娘はもちろん可愛かった。だけど、周りが言うような「かわいさ」とは少し違っていた。

「かわいい」という言葉で気安く表現したくない、もっと神聖なものを彼女から感じていた。

口をきゅっと結んで眠る姿はまるで仏のようで、母は

「ほんまに賢そうやなあ、綺麗やなぁ」といつも目を細めていた。

誰に対しても愛想がよく手のかかることのほとんどない娘が1歳を過ぎた頃、息子が産まれた。


ひとり目が帝王切開だったので、ふたり目も帝王切開になることが決まっていた。

妊娠中は何度もあの脊髄注射の恐怖に心が折れそうになったが、夫の家にとっても初めての男の子ということで喜ばれていたのもあり、クラシック音楽を聴き平安を心がけた。

手術日は1月30日。この日は縁起の良い日で、手術の予約が殺到してるのよとドクターが言った。

確かに、その日の手術室には次から次へと妊婦が運び込まれ賑やかだった。

この日は上海では珍しく雪が降った。夫と娘が無事に病院に来られるか心配していたが、ふたりは間に合い、ほっとした。

元気に産まれた息子を見た時も、娘の時と同じように涙が静かに頬をつたった。


手のかからない娘と違い、息子はとにかくやんちゃだった。

男女の違いなのか、個性なのか、一度決めたら絶対にこう!という息子の頑固さには何度も泣かされ、そして、何度も笑わされた。

歩きはじめてからは何度も駄々をこねて家から逃げ出した。旅行で行ったバンコクの観光地では、人混みの中を走り去った。あの時ほど、世界の終わりを感じたことはない。

その強情さがわたしの母性をくすぐるのか、目に入れても痛くないという感覚を息子で体感した。

達観した雰囲気の娘と、やんちゃな息子のおかげで、やさぐれていたわたしの心のとげは抜け、少しずつ柔らかく穏やかになっていった。

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